LOGIN黒い水は、奈々香の膝を越えていた。
「早く! もう腰まで来る!」
四番目の個室の内側から、奈々香が扉を叩く。
狭い木板が衝撃を受け、鈍い音を繰り返した。
ばたん。
ばたん。
その合間にも、水の流れる音が大きくなる。
ごぼ、ごぼ、と水洗タンクの奥で空気が泡立ち、黒い液体が床へ溢れている。
澪は扉へ両手をついた。
「奈々香、もう少しだけ待って!」
「無理! 冷たい! 足が動かない!」
奈々香の声は泣き崩れていた。
先ほどまでは足首ほどだったはずの水位が、数十秒で腰近くまで上がっている。
澪は床を見た。
個室の外は乾いている。
扉の下には数センチの隙間があるのに、黒い水は一滴も漏れてこない。
「おかしい」
美月も同じ場所を見ていた。
「これだけ溜まれば、下から流れ出るはず」
古い女子トイレには排水口がある。
しかも、増設された四番目の個室の床にも、小さな排水穴が見えていた。
完全に塞がれていたとしても、腰まで水を溜めるには相当な量が必要になる。
この狭い空間に、その水がどこから供給されているのか。
「朔!」
悠斗が叫ぶ。
「錠はまだか!」
「外から外す」
朔は電磁錠を諦め、個室の側壁へ懐中電灯を当てていた。
増設された木板の継ぎ目。
外側から古く見せるため、表面には汚し塗装が施されている。
しかし、板そのものは新しい。
朔は工具の先端を継ぎ目へ差し込んだ。
「悠斗、ここを押さえろ」
二人で板をこじる。
最初はびくともしない。
悠斗が肩を押しつけ、朔が工具をさらに深く差し込む。
みし。
木材が裂ける。
内側で奈々香が悲鳴を上げた。
「何か、いる!」
澪の背中が凍る。
「何が?」
「鏡に……後ろに……澄花が!」
「鏡を見ないで!」
美月が叫ぶ。
「正面の扉だけ見て! 私たちの声を聞いて!」
「無理! 耳元で喋ってる!」
「何て?」
奈々香の返事は、水を蹴る音に掻き消された。
ばしゃん。
ばしゃん。
「腰まで来た! お願い、開けて!」
八年前。
理科準備室の扉を叩く声が、澪の耳の奥で重なった。
『澪ちゃん、開けて!』
掌の古傷が疼く。
あのときは逃げた。
煙。
火災警報。
男の声。
『もう助からない』
そして、自分は扉を離れた。
「今度は絶対に置いていかない」
澪は呟いた。
「何?」
美月が横を見る。
「何でもない」
澪は一歩下がり、扉へ肩をぶつけた。
痛みが腕から首へ走る。
扉は開かない。
「もう一回!」
「待って!」
美月が澪を止める。
「肩を壊す。朔が今外してる」
壁の一部が剥がれた。
内部から電磁錠の本体が現れる。
金属製の小さな箱。
そこから太いボルトが扉側へ突き出している。
「見えた」
朔が息を吐く。
工具を奥へ差し込む。
「奈々香! 扉から離れろ!」
「動けない!」
「少しでもいい!」
奈々香が壁へ身体を寄せる音がする。
朔は電磁錠の本体を固定している螺子へ工具を当てた。
一つ。
二つ。
錆びて見えるが、螺子自体は新しい。
悠斗が手で壁板を広げ、朔が最後の固定具を外す。
金属箱が外れた。
扉が数センチ開く。
「澪!」
朔の声。
澪と美月が同時に取っ手を掴んだ。
引く。
内側から水の重みが押してくる。
はずだった。
扉は、驚くほど軽く開いた。
「奈々香!」
澪が中へ腕を伸ばす。
奈々香は便器の上に片足を乗せ、壁へ背を押しつけていた。
全身がびしょ濡れだった。
レインコートの裾から黒い水が滴り、ズボンは腿まで身体へ貼りついている。
美月が腕を掴み、澪と二人で外へ引き出した。
奈々香は床へ膝をついた。
「水……」
振り返る。
四番目の個室。
水はなかった。
一滴も。
床は乾いている。
便器。
壁。
タンク。
どこにも濡れた跡がない。
奈々香から落ちる水だけが、白いタイルへ小さな水溜まりを作っていた。
「嘘……」
奈々香は自分の服を見た。
袖を絞る。
透明な水が何滴も落ちる。
黒くない。
ただの水だった。
「さっき、黒かった」
「見た」
澪が答える。
「扉の隙間からは見えなかったけど、奈々香の足元で跳ねてたのは黒かった」
美月は奈々香を壁際へ座らせた。
「寒気は?」
「ある」
「震えは?」
「止まらない」
「濡れた服を脱げる範囲で脱いで。上に羽織るものを出す」
救急鞄から保温用の薄いシートを取り出す。
奈々香の肩へ掛けながら、唇の色と意識を確認する。
朔は四番目の個室へ入った。
床へ膝をつき、排水口を見る。
「詰まってない」
「じゃあ溜まるわけないだろ」
悠斗が言う。
「腰まで入ってたんだぞ」
朔は水洗タンクの蓋を外した。
中には、本来の部品とは別に、小さなポンプが固定されていた。
透明なチューブ。
電池。
黒い袋に入った液体。
「染料だ」
袋を光へ透かす。
「水へ色をつけるためのもの」
「じゃあ、黒い水は仕掛けだった?」
澪が訊く。
「一部は」
朔はタンクの内部を調べる。
「ポンプで水を床へ出せる。黒い液体を混ぜれば、見た目は作れる」
美月が個室の広さを測るように目を動かした。
「でも量が合わない」
朔も頷く。
「タンクと追加容器を全部空にしても、せいぜい床を数センチ濡らす程度だ」
「投影は?」
悠斗が天井を照らす。
「映像で水位を高く見せたとか」
「できる」
朔が壁を確認する。
便器上の小さな鏡。
天井近くの隙間。
その一部に小型投影機が取りつけられていた。
「壁へ黒い水面を投影すれば、実際より高く見せられる」
「じゃあ終わりじゃん」
悠斗が言う。
「奈々香が腰まで浸かったと思い込んだだけだ」
「服は?」
美月の声が低かった。
悠斗が黙る。
奈々香のズボンは、腰の少し下まで完全に濡れている。
レインコートの内側も濡れていた。
床へ流した程度の水が跳ねただけでは、こうならない。
しかも個室の床には、その水自体が残っていない。
「全部、錯覚じゃない」
澪が呟く。
人間が作った仕掛けはある。
電磁錠。
ポンプ。
染料。
投影装置。
だが、それだけでは足りない。
いつも同じだった。
説明できるもののすぐ隣に、説明できないものが残る。
「スマホ」
奈々香が突然言った。
「何?」
「中で鳴ってた」
保温シートを押さえながら、濡れた鞄を開く。
スマートフォンを取り出す。
画面は水滴に覆われていたが、まだ動いている。
「撮ってないのに……」
新しい動画ファイルが一つ保存されていた。
作成時刻は数分前。
四番目の個室へ入った直後から始まっている。
「また勝手に」
奈々香の指が震える。
朔が端末を受け取り、再生する。
映像には奈々香が映っていた。
撮影位置は、個室の天井近く。
室内を斜め上から見下ろしている。
「この角度、スマホじゃない」
悠斗が言う。
「奈々香の端末は鞄に入ってた」
「でもファイル情報は、この端末で撮影したことになってる」
朔が答える。
映像の中で、黒い水が奈々香の靴の周囲へ広がる。
最初は薄い。
やがて足首を隠し、膝へ近づいていく。
映像でも、水位が上昇しているように見えた。
そして。
奈々香の背後に、制服姿の少女が立っていた。
澪は息を止めた。
狭い。
一人が便器の前へ立てば、背中と壁の間には十数センチしかない。
そこへ人間がもう一人立てるはずがない。
それでも少女はいた。
濡れた黒髪。
紺色の制服。
右手首の赤い組紐。
椎名澄花。
彼女は俯いている。
両手で、自分の喉を押さえていた。
「何してるの……」
美月が画面へ近づく。
澄花の指は首へ食い込んでいる。
苦しそうに見える。
喉を絞められたことを示しているようにも。
映像の奈々香は鏡を見て、身動きを止める。
その背後で澄花が顔を上げた。
奈々香の耳へ唇を近づける。
何かを囁く。
「音、上げて」
澪が言う。
朔は端末の音量を最大にした。
水音。
奈々香の泣き声。
扉を叩く澪たちの声。
その奥に、少女の声がある。
朔が何度か再生位置を戻す。
雑音へ埋もれた声。
『あのとき――』
さらに上げる。
『閉めたのは奈々香じゃない』
誰も言葉を発しなかった。
奈々香だけが画面へ手を伸ばした。
「もう一回」
再生する。
『あのとき、閉めたのは奈々香じゃない』
「もう一回」
「奈々香」
「お願い」
三度。
四度。
同じ声。
奈々香の目から涙が落ちる。
「私じゃないって、どういう意味?」
誰へ向けた問いなのか分からない。
「私、澄花をここに閉じ込めてない」
「分かってる」
澪が隣へしゃがむ。
「髪留めを取ったことと、閉じ込めたことは別だよ」
「でも、これ……」
奈々香は四番目の個室を見る。
「澄花、本当にここにいたの?」
「八年前に?」
「私は先に出た」
息を整えながら、途切れ途切れに話す。
「髪留めが割れて、澄花が怒って……私も頭にきて、勝手にすればって言ってトイレを出た」
「澄花は残った?」
「うん」
「一人で?」
澪の問いに、奈々香は目を閉じた。
「最初は」
「最初は?」
「あとから誰か来た」
奈々香の眉間へ深い皺が寄る。
「廊下で声がした。澄花を呼んでた」
「誰だった?」
奈々香の呼吸が止まった。
「男? 女?」
「待って……」
両手で頭を押さえる。
「声、知ってる」
「誰?」
「思い出せそう」
澪がさらに近づく。
「奈々香。誰だった?」
「うるさい」
「え?」
「音が……」
奈々香が左耳を押さえた。
「また鳴ってる」
耳鳴り。
音楽室で出血した耳。
奈々香は顔を歪め、頭を強く振った。
「きいんって……頭の中で……」
「耳を触らないで」
美月がすぐに近づいた。
「ゆっくり手を離して」
「無理、痛い!」
「奈々香、私を見る」
美月が両手を取ろうとした。
その瞬間、奈々香の濡れた髪の中から何かが落ちた。
小さな黒い部品。
タイルへ当たり、乾いた音を立てる。
全員の動きが止まった。
朔が先にしゃがんだ。
手袋をした指で拾う。
長さ数センチ。
耳穴へ入れる一般的なイヤホンとは形が違う。
薄い湾曲した部品と、小さな振動子。
「何これ」
奈々香が怯えた目で見る。
「私のじゃない」
朔は照明へかざした。
「骨伝導式に近い」
「骨伝導?」
美月が受け取る。
「耳の中じゃなく、骨を振動させて音を伝える装置?」
「そう」
朔は奈々香の左耳の後ろ、髪の生え際を見る。
皮膚に、小さな赤い圧迫痕が残っていた。
「ここにつけられてた」
「いつから?」
「分からない」
「私、気づかなかった」
奈々香は自分の髪を何度も触る。
「こんなのついてたら普通分かるでしょ」
「髪の中へ固定すれば、状況によっては気づきにくい」
朔が装置の側面を確認する。
「外から信号を受ける機能もありそうだ」
悠斗の表情が変わる。
「何を聞かせてた」
「特定できない」
「でも、耳鳴りが始まったのは思い出そうとしたときだ」
澪が言う。
音楽室。
鏡。
澄花の姿。
そして今。
八年前、澄花を呼びに来た人物を思い出そうとした瞬間。
「記憶を邪魔するため?」
奈々香が囁く。
美月が慎重に答える。
「音だけで過去の記憶そのものを自由に消したり作ったりできるとは言えない。でも、強い不安や恐怖を煽る音を繰り返し聞かせれば、集中を妨げたり、思い出そうとすることを苦痛に感じさせたりはできる」
「じゃあ、誰かが私に……」
奈々香は周囲を見た。
澪。
美月。
悠斗。
朔。
「いつつけたの?」
誰も答えられない。
校舎へ入ってから、奈々香は全員と接触している。
澪は何度も肩へ触れた。
美月は左耳を診察した。
悠斗は舞踊室で奈々香を支えた。
朔も、割れたスマートフォンを受け取る際に近くへ立った。
誰にでも機会はあった。
「私は違う」
奈々香が咄嗟に言った。
誰にも疑われていないのに。
「私、自分でこんなのつけてない」
「分かってる」
澪は言った。
だが、声に自信を持てなかった。
人間が作った装置。
人間がつけたはずの機器。
つまり、今も五人の近くに、その人間がいる可能性がある。
四人の中に。
あるいは壁の向こうに。
朔は装置を透明な袋へ入れた。
その手元を、悠斗がじっと見ている。
澪は胸元の手帳へ触れた。
澄花の楽譜。
まだ見せていない。
隠すという行為が、以前より重く感じられた。
背後の壁で、白い粉がさらりと落ちた。
五人が振り向く。
灰色の壁へ文字が浮かび上がる。
五つ目
四番目の個室 終了スマートフォンが一斉に震えた。
七つの学校章。
五つ目が赤く染まる。
残る二つ。
「あと二つ……」
奈々香が呟いた。
安堵ではない。
死刑までの回数を数えるような声だった。
そのとき、天井のスピーカーから雑音が流れた。
ざあ。
廃校全体へ古い放送設備の接続音が広がる。
次に、あの女性教師の声がした。
『相馬透くん』
美月の顔が上がる。
透は二年七組へ残してきた。
『欠席の理由を答えてください』
澪の心臓が強く打った。
誰も動けない。
数秒。
校内のどこかで、椅子が軋んだ。
そして。
死んだ相馬透の声が、学校中のスピーカーから答えた。
『殺されたからです』
黒い水は、奈々香の膝を越えていた。「早く! もう腰まで来る!」 四番目の個室の内側から、奈々香が扉を叩く。 狭い木板が衝撃を受け、鈍い音を繰り返した。 ばたん。 ばたん。 その合間にも、水の流れる音が大きくなる。 ごぼ、ごぼ、と水洗タンクの奥で空気が泡立ち、黒い液体が床へ溢れている。 澪は扉へ両手をついた。「奈々香、もう少しだけ待って!」「無理! 冷たい! 足が動かない!」 奈々香の声は泣き崩れていた。 先ほどまでは足首ほどだったはずの水位が、数十秒で腰近くまで上がっている。 澪は床を見た。 個室の外は乾いている。 扉の下には数センチの隙間があるのに、黒い水は一滴も漏れてこない。「おかしい」 美月も同じ場所を見ていた。「これだけ溜まれば、下から流れ出るはず」 古い女子トイレには排水口がある。 しかも、増設された四番目の個室の床にも、小さな排水穴が見えていた。 完全に塞がれていたとしても、腰まで水を溜めるには相当な量が必要になる。 この狭い空間に、その水がどこから供給されているのか。「朔!」 悠斗が叫ぶ。「錠はまだか!」「外から外す」 朔は電磁錠を諦め、個室の側壁へ懐中電灯を当てていた。 増設された木板の継ぎ目。 外側から古く見せるため、表面には汚し塗装が施されている。 しかし、板そのものは新しい。 朔は工具の先端を継ぎ目へ差し込んだ。「悠斗、ここを押さえろ」 二人で板をこじる。 最初はびくともしない。 悠斗が肩を押しつけ、朔が工具をさらに深く差し込む。 みし。 木材が裂ける。 内側で奈々香が悲鳴を上げた。「何か、いる!」 澪の背中が凍る。「何が?」「鏡に……後ろに……澄花が!」「鏡を見ないで!」 美月が叫ぶ。「正面の扉だけ見て! 私たちの声を聞いて!」「無理! 耳元で喋ってる!」「何て?」 奈々香の返事は、水を蹴る音に掻き消された。 ばしゃん。 ばしゃん。「腰まで来た! お願い、開けて!」 八年前。 理科準備室の扉を叩く声が、澪の耳の奥で重なった。『澪ちゃん、開けて!』 掌の古傷が疼く。 あのときは逃げた。 煙。 火災警報。 男の声。『もう助からない』 そして、自分は扉を離れた。「今度は絶対に置いていかない」 澪は呟いた。「何?」 美
三階女子トイレには、三つしか個室がなかった。 八年前も同じだった。 澪は入口に立ったまま、右から順番に扉を数えた。 一つ。 二つ。 三つ。 薄い水色の扉はどれも塗装が剥げ、下端には湿気で膨らんだ木が黒く浮いている。床の白いタイルはところどころ割れ、洗面台の蛇口には赤錆が厚くこびりついていた。 五つ目の印が示した場所。 三階女子トイレ、四番目の個室。 だが、どれほど見ても四つ目はない。「間違ってるんじゃないの」 奈々香が入口から動かずに言った。 声には期待が混じっていた。「四番目なんてない。これなら、行き先そのものが嘘だったってことでしょ」 誰もすぐには答えなかった。 奥の小窓から雨の青白い光が差し込んでいる。天井灯は死んでおり、五人の懐中電灯だけが便器の白や配管の錆を拾っていた。 美月が三つの個室を一つずつ開く。 一番目。 空。 二番目。 便座が外され、床へ転がっている。 三番目。 天井から蜘蛛の巣が垂れているだけ。「壁の奥に設備室がある可能性は?」 美月が尋ねる。 悠斗が通路図を広げた。「女子トイレの裏は配管スペース。さっきの管理通路とつながってる。ただ、ここから直接入れる入口は載ってない」「載っていない入口ばかりだな」 朔が壁を照らす。 そのとき、澪は入口脇の鏡を見た。 長い洗面台の上に設置された横長の鏡。 表面は黒い斑点に侵され、中央には縦へ亀裂が走っている。 鏡の中に、四つの扉が映っていた。 澪は呼吸を止めた。「……ある」「何が?」 美月が振り返る。「鏡」 澪は指を向ける。「四つある」 全員が鏡を見た。 現実の背後には三つ。 鏡の中には四つ。 三番目の右隣。 本来なら灰色の壁しかない場所に、もう一枚、薄い水色の扉が立っている。 表面には黒い数字で〈4〉。 奈々香の顔色が変わった。「いや」 短い声だった。 壁へ背をつける。「奈々香?」「そこ……」 鏡の四番目の扉を見たまま、奈々香の唇が震える。「八年前も、あった」 悠斗が彼女を見る。「四つ目が?」「見えたわけじゃない。でも、澄花が言ってた」 奈々香は左耳に残ったガーゼへ触れた。「四つ目があるって。私、馬鹿にした。三つしかないじゃんって」 記憶が戻ったのか、声が次第に細くなる。「それから……
「……上げて」 掠れた声は、階段下の暗闇から聞こえた。 男とも女とも判別できない。喉を潰した人間が、長いあいだ声を出さずにいたあと、無理に息を押し出したような音だった。 五人は動かなかった。 朔が十二段目へ膝をつき、懐中電灯を空洞へ向ける。 白い光が、壁面をゆっくり滑った。 深さは五メートルほど。 底には使われなくなった机や椅子が乱雑に積まれていた。錆びた金属脚が絡み合い、崩れた木製の天板が斜めに立っている。古い配管が壁に沿って下り、底には雨水らしい黒い水が薄く溜まっていた。 人影はない。「誰かいるのか!」 悠斗が叫んだ。 返事はなかった。 先ほどまで聞こえていた爪の音さえ消えている。「空耳……?」 奈々香が美月の腕を掴んだ。「五人とも聞いた」 美月は空洞から目を離さない。「少なくとも、私には聞こえた」 澪も頷きかけた。 そのとき。 朽ちた椅子の隙間で、白いものが動いた。 細い指。 血の気のない小さな手が、折れた机の陰から一瞬だけ伸びたように見えた。「待って」 澪が一歩前へ出る。「今、手が」「何?」「下に誰かいる」 朔が光を戻す。 椅子の隙間。 何もない。「澪、離れて」 美月が肩へ触れた。「人がいるなら救助が必要。でも、まず安全を確認する。五メートルはある。下の床が抜けている可能性も――」「私が下りる」「駄目」「誰かがいるかもしれない」「だからこそ一人では下りない」 美月は強く言った。「さっき悠斗が落ちかけたばかりでしょう」 澪は空洞を見下ろした。 声。 白い手。 そして、耳の奥に蘇る八年前の澄花。『澪ちゃん。開けて』 助けを求める声を聞いた。 それなのに逃げた。 今度も同じことをしたら。「途中まででいい」 澪は朔を見る。「ロープをつけて。何かあったらすぐ引き上げて」「俺が行く」「朔じゃ駄目」「理由は」「私が見たから」 澪の声が僅かに震えた。「白い手を見たのは私。もしまた、私にしか見えてないものなら……私が確かめる」 朔は数秒黙った。 反対したのは美月だった。「危険すぎる」「でも、人がいるなら」「救助する側まで落ちたら意味がない」「分かってる」 澪は自分の腰へ手を当てた。「だからロープを使う」 朔は空洞と澪を交互に見た。 やがて、悠斗
少女が「十三」と数えた直後、東棟の照明がすべて消えた。 暗闇は一瞬だった。 それでも澪には、その短いあいだに誰かが階段を一段上ったように聞こえた。 こつ。 硬い上履きの底が、木の踏み板へ触れる音。 続いて蛍光灯が白く明滅した。 十二段しかないはずの階段の最上部に、もう一段増えていた。「……何、あれ」 奈々香が美月の袖を握る。 誰も答えなかった。 澪は階段を見上げた。 一階から踊り場まで、十二段。 八年前にも上った。今夜も何度も通った。幅の狭い古い階段で、七段目だけ踏むと軋む。十一段目には大きな欠けがあり、十二段目を越えれば踊り場へ出る。 その十二段目の上に、見覚えのない黒い踏み板があった。 十三段目。 しかも、その先に廊下が続いている。 三階へ上がる階段ではない。 踊り場の壁がなくなり、さらに上の階へ向かう長い廊下が伸びていた。 薄暗い窓。 左右へ並ぶ教室の扉。 天井から垂れる蛍光灯。 突き当たりの壁だけが、霧の中へ溶けるように見えない。「四階……?」 美月が呟く。「ない」 悠斗が即座に否定した。 声がひどく乾いている。「この校舎は三階建てだ」「図面にも?」 澪が訊く。「ない。屋上の設備室ならあるが、人が歩ける階じゃない」 朔は階段へ近づかず、小型カメラを構えた。「全員、その場から動くな」 液晶に十三段目と四階らしき廊下が映っている。 今度は、カメラにも存在していた。 朔は角度を変えた。 正面から。 壁際から。 床近くから。 どの角度でも、十三段目はある。 突然、照明が消えた。「動かないで!」 美月の声。 数秒後、明かりが戻る。 十三段目は消えていた。 その先の四階もない。 十二段目の先には、いつもの踊り場の壁がある。 奈々香が息を呑む。「今、なかった」「ああ」 朔はカメラを確認する。「映像からも消えてる」 また照明が瞬いた。 一度暗くなる。 白い光が戻る。 十三段目。 四階。 存在する。 照明の明滅に合わせ、建物そのものが形を変えているようだった。 澪のスマートフォンが震えた。 続いて四人の端末も同時に鳴る。 七つの学校章。 赤く塗られているのは三つ。 七人目の出席。 校歌。 姿見。 その下へ新しい文章が表示された。 十三段目に
東棟の階段から響いた重い音は、十三度目で止まった。 どん、と最後の一音が校舎の底へ沈み、そのあとには非常ベルだけが残った。 赤い警告灯が明滅するたび、割れた鏡の破片が床の上で光る。つい先ほどまで、その一枚には透の姿が映っていた。 階段へ行くな。 死んだ透の唇は、確かにそう動いていた。「行かない」 澪が言った。 自分でも驚くほど強い声だった。 悠斗が東棟へ続く扉を見た。「でも、今の音を確認しないと――」「透が行くなって言った」「鏡に映ったものを信用するのか?」「今は、何も確認できてないまま近づく方が危ない」 美月も澪の隣へ立った。「賛成。さっきのは人が階段から落ちた音にも聞こえた。でも、本当に人なら声くらい出てもおかしくない。先にここで分かることを調べる」 奈々香は返事もしなかった。左耳に当てたガーゼを押さえ、割れた鏡を見ないよう俯いている。 朔だけは非常ベルの周期を数えていた。 やがて胸元へ固定した小型カメラを外す。「舞踊室の映像を見る」 悠斗が苛立ったように振り返った。「今?」「今だからだ。俺たちが見たものと、記録されたものが一致してるか確認する」 その言葉に、澪の胸元で手帳が重くなった。 中には、澄花の字で書かれた楽譜が挟まれている。 朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない。 その一文を、澪はまだ誰にも見せていない。 朔は床へ膝をつき、カメラの液晶を開いた。 五人が横一列に並ぶところから映像を戻す。 一往復目。 五人。 二往復目。 五人。 澪たちの記憶では、鏡の中の悠斗だけが半歩遅れた。 だが保存映像では、悠斗もほかの四人と同じ速さで動いている。「違う」 澪が画面へ顔を近づけた。「ここ。悠斗が遅れたはず」「遅れてないな」 美月も確認する。 三往復目。 現実では、鏡の中の奈々香が一人だけ立ち止まった。 映像の中では、五人全員が同じ歩調で端まで進んでいる。「私、止まってたよね」 奈々香が掠れた声を出した。「鏡の中の私だけ。みんな見たよね」「見た」 澪が答える。 美月も頷いた。 四往復目。 澪の呼吸が浅くなる。 このとき、鏡の中には六人いた。 五人の後ろを、制服姿の少女が歩いていた。 右手首には赤い組紐。 けれど、小型カメラの映像には五人しか
西棟一階へ近づくにつれ、雨音が遠くなった。 代わりに、五人の足音だけが長い廊下へ乾いて響く。 東棟よりも荒廃が進んでいるらしく、天井には幾つもの穴が開き、壁紙は湿気を吸って垂れ下がっていた。窓硝子の半分は割れ、黒い板で塞がれている。 それでも、突き当たりにある両開きの扉だけは、不自然なほど形を保っていた。 曇った金属板へ、かすれた文字が残っている。 舞踊室。「ここ……」 奈々香が足を止めた。「覚えてる」 声は小さい。 左耳には美月が当てた薄いガーゼが残っていた。出血は止まっているが、何度も耳へ指を伸ばしかけては、途中で思い直して腕を下ろしている。「八年前に来たよね」「来た」 悠斗が答えた。 迷いのない声だった。「ここの鏡が七不思議の一つだった」 朔は扉の前でしゃがみ、下部へ懐中電灯を向けた。 細い隙間から、埃の積もった床が見える。 糸や配線はない。「どんな噂だった?」 美月が悠斗へ尋ねる。 悠斗は扉の取っ手へ手を掛けながら言った。「午前零時を過ぎて、鏡の前を全員で歩く」 低い軋みとともに扉が開く。「最後の一人だけ、鏡の中に残される」 舞踊室の暗闇が現れた。「残った奴は、翌朝までに消える」 澪の背中を冷たいものが走った。 部屋は細長かった。 奥行きのある長方形で、床には古い木板が敷かれている。壁際には朽ちた手摺が残り、その上を白い黴が這っていた。 そして、左側の壁一面。 端から端まで、巨大な鏡で覆われている。 幾つもの鏡板を並べて作られたものだった。 表面はところどころ黒く曇り、細かなひびも入っている。それでも五人の姿を映すには十分だった。 澪。 朔。 美月。 悠斗。 奈々香。 五人。 鏡の中にも五人。 赤い組紐の入った袋が、澪のポケットの中で僅かに冷たくなった。「当時は何も起きなかった」 悠斗が部屋へ入りながら言った。「澄花がふざけて隠れただけだった」 澪は顔を上げた。「隠れた?」「ああ」「ここで?」「そうだ」 悠斗は当然のことのように答える。「七人で鏡の前を歩いて、最後に数えたら六人しかいなかった。奈々香が泣いて、美月が怒って。あとで澄花が裏から出てきた」「裏って、どこ」「カーテンの向こうか何かだっただろ」 澪は舞踊室を見回した。 壁際にカーテンはない